これは、石井和紘の母、石井恭子が書いた詩です。
| 1922 誕生 父大場四平 1966 高田敏子「野火の会」入会 1999 伊藤桂一先生の教室に参加 「砧」同人 2002 逝去 |
伊藤桂一
この詩集は石井恭子さんの「風のながれ」「青い繭」「海の太鼓」につづく第4詩集で、長い詩歴を経てまとめられたものである。撓まぬ勉強の成果ということになるが、一篇ずつがしっかりした完成度を持っていて、さりげなく平明な表現ながら、意味深い心情の吐露を重ねてゆく。従って、重厚なテーマと対決してゆくに似た、一種格別な衝迫性を、どの作品からも受けとらされてしまう。こまかく配慮された、変幻に満ちたユニークな作品の連鎖といいたい。
この詩集の冒頭に「かたつむり」「かたつむりのひとりごと」といった作品が置かれているのは、私には、作者の現実遊離の願望があっての所産か、という気がする。かたつむりのゆるい歩みながらも、周辺の世界がつぎつぎにひらかれていく。飾り棚の上からふいに落とされて草の上を走り出し、あじさいの木の根方に止まる。あるいは、歩みながらも、ブランルの演奏に引かれて踊り出し、身も軽く進んだ果てに、また、あじさいの木の根にぶつかる。そうして、葉裏の重なりの暗い場所で、わたしではないかたつむりに変身しているのである。カフカの小説「変身」の主人公ザムザが、かぶと虫に変身してゆくのと、どこか似ている。こうした、大胆な表現上の手法は、この詩人の従来までの詩集の世界にはなかったと思う。
それにしても、このかたつむりの歩みは、堅実で方向を誤らない。かたつむりにはかたつむりのめざす意味、あるいは理想があって、自身の世界をひらいてゆくのである。「いちにち」という作品をみる。
朝露をこぼして
足許の草むらから
跳んだもの
目のはしに
影を引いた
白い匂い水仙が
ゆっくりとまるくゆれて
夕映えのむこうから
草むらのなかへきて
身をかくしたもの
影が
影を引いて
白い水仙は
ゆれるのをやめている
いつのまにか
細すぎる月がかかり
とうめいなしずけさへ
ながされそう
右の詩には、未知への不安と期待とが、神秘的に暗喩化されていて、作者の内面の秘密を「宝さがし」のようにさがさせようとする、意地悪な企みさえ覚える。さらに「白い扉」をみる。
駅員はわたしを誘導して
白い小型の門扉を開けて どうぞといい
ホームに沿った下り坂の通路を行き
白いボタンを押して下へ降りた
――そうして迷路をめぐり、白い蛾のような人影をみたり、自身も蛾になってしまいそうな、うろうろとした状態でいると、ぼお、と汽車の遠い汽笛が聞こえ、
汽笛の音の中に
さっきの駅員があらわれて
ボタンを押して上がり
同じような白い扉を開けてくれた
どうぞ
――と、いう。駅員が、どこへ誘導しようとしているのかは、作者は明かしていない。詩の中の、かたつむりだけが、その誘導の意味を知っているのであろう。
この詩集には、微妙な蕩揺感があって、見知らぬ国を(かたつむりに案内されているように)歩まされている気分がある。それは、つまり、作者が、詩の世界を模索している情熱衝動が、私たちに与える、不思議な蕩揺感であろう。
非情に個性的な、いわば、メルヘン的な呪法の世界へ、牽き込まれてゆくような、幻覚を見せられている気もする。詩作の修練を重ねてきた作者の、自身の存在をも賭けているような、きびしい実験が、あるいは、この一巻にあるのかもしれない。
石井さんは、おだやかで明るい気質の人だが、いかに必死懸命な勉強ぶりであったかが、この一巻で、よくうかがわれる。この一巻を作者は、自身のもっとも愛する、幼い小学4年のあいこへ贈ろうとしている。そのだいじなあいこだのに、連れ立って出かけたはずの土地では、記憶がない。詩は、ここでも、つぎのような暗示を残したままに終わる。(「あいこへの手紙」)(2)
終点だといわれて、わたしもあいこも降りた。
「知らないとこだよ、へんだね」とあいこはいったけど
「ほんと、どこかしら」といいながらも「でもみんなと一緒
に歌っていたじゃない」といったら、あいこは「歌なんか歌
わないよ そんなことしてないもん」といった。
わたしの今一番行きたいところへ行ったはずなのに
どうしたのかしら
『風のながれ』
『青い繭』

『海の太鼓』

『あいこへの手紙』
